言の葉の美
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こんにちは、山本です。
前々回のメルマガでTwitterのフォロワーさんとの
やり取りをご紹介させていただきました。
正直に告白すれば、このやり取りをしている最中、
僕は非常にストレスフルでした。
140文字の世界で、かつ、お互いの顔は見えない。
そんな中、相手が僕の発言のどこにひっかっているのかが
全くわからない。
言葉のルール的には矛盾がないように発信し、返信した(つもり)。
でも相手が意味不明な問いかけをしてくる。
疲れましたよ、ほんとに。。。
一応の結論から言えば、
「コップに半分の水が入っている。」を見て、
「まだ半分もある」
と思うのか、
「もう半分しかない」
と思うのか。
これと同じ。
同じ言葉を受け取ったのに、アウトプットが真逆だった。
コミュニケーションの教科書の例題に取り上げたいくらい
典型的で王道なやりとりでした。
僕は先ほど『言葉のルール』と言いました。
これを換言すれば『論理』ですが、論理が破綻したところでは
コミュニケーションは成り立ちません。
「何オーダーする?」
「犬ってちょーかわいくない」
これは先日行きつけのカフェで実際にあった会話です。
二人の大学生らしき女性の会話に僕の読書は止まりました。
「・・・?犬?」
僕は犬が近くにいるのか探しました。
「いない、犬はおろか猿もキジもいない。
カフェメニューに犬ってあったっけ?
ただここはドックカフェではないし、
ましてやペットショップでもない・・・」
頭の中に渦巻く謎。
「実に面白い」
ただ謎解明をする間もなく犬と発言した彼女は
「バニララテのホットで」とオーダー。
謎のまま終了・・・DEATH!!
で、何がお伝えしたいのかというと。
ここには論理は存在しません。
思いつきの会話。
これはこれで楽しいことは否定しないけど、
毎度これだとお騒がせしちゃうわけです。
なぜって?
だって僕はこの女性とコミュニケーションを
取る自信がないから・・・(苦笑)。
「え?なんで今ここで犬なの?
今の文脈で犬が可愛いはどうして出てくるの?
どういう思考回路をたどったの?
そこにアルゴリズムはあるの?
ヒューリスティックスが宇宙的規模すぎて
追いついていけないんだけど説明してくれる?」
「もう!めんどくさい男!」
意思疎通ができぬまま終了・・・です!!
アリストテレスは論理のことを『オルガノン』と言いました。
『オルガノン』はギリシャ語で『道具』という意味です。
つまり、論理は『道具』。
『道具』は皆が同じ使い方をするから『道具』として意味をなすのです。
野球のバットはボールを打つために使用するのであって、
決して人を殴る道具ではない。
ハンガーは洋服をかけるために使用するのであって、
決して武田鉄矢の刑事物語よろしくヌンチャクではない。
思考トレーニングの一環として、その道具の違う使い方を考えるのはいい。
でもコミュニケーションの土台である道具(論理)を
勝手気ままに使用してはいけない。
その理由は、僕らが共通に使用する道具としての論理を見てみれば明らかです。
それでは「論理とはなんぞや?」をのぞいて見ましょう。
三段論法と聞いて少し身構えたとしたら案ずるには及ばずです。
実際の例をあげて見てみましょう。
「山本は人間である。
全ての人間は死すべきものである。
故に、山本は死すべきものである。」
ね?
何の面白みもない誰しもが反対しようがない文章(推論)でしょ。
これが論理なんです。
イメージ的には、一歩一歩階段を登っていくって感じで、決して
「2段跳びの方が早くたどり着くぜ、ウェーイ」をしてはいけない。
仮に、
「山本は人間である。
故に、山本は死すべきものである。」
だと、「死なない人間の可能性」が浮上してしまい、
「全ての人間はいつか必ず死ぬ」を知らない人にとっては
飛躍を感じるものになってしまいます。
「え?何で山本は死ぬの?」って。
(もちろん僕らは未だかつて「死ななかった人間」を
見たり聞いたりしたことはありませんから、
2段目がなくても問題ないのですけど、論理的には
ディスココミュニケーションの要因の一つとなり得る)
ここで注意したいのは、「論理は常識・非常識を問わない」
ということです。
これを説明する前に「論理とはなんぞや?」に答えておきます。
「言葉と言葉の繋がり」
先ほどの三段論法(推論)は繋がりを感じますよね?
片や、カフェで遭遇した女性の会話には繋がりを感じません。
まずはこれを覚えておいてください。
覚えたところで問題です。
○次の文章は論理的な文章と言えるでしょうか?
「山本は2020年開催の東京オリンピック陸上100mで
金メダルを取っているはずだ。」
・・・変な文章ですね(笑)。
変な文章ですが、これは論理的には問題ありません。
実現可能性の話をしてしまえば限りなく0でしょう。
ただこの文章は非常識とは言えるかもしれませんが、
論理的には問題ない。
「山本の彼女は佐々木希だろう」も
「山本は来年宇宙飛行士になっている」も、
書いてて恥ずかしく、且つ、虚しくなりますがモウマンタイ。
これを論理的可能性と言います。
反対に「にわか雨が1週間降り続く」や「右を向きながら左を向く」は、
論理的文章とは言えません。
なぜなら、にわか雨はすぐに降り止むからにわか雨なのであって、
1週間降り続く雨をにわか雨とは呼ばないわけだし、
「右を向きながら左を向く」って日本語の文章としては読めるけど、
読めるだけで意味不明ですよね。
考えれば考えるほど知恵の輪がとけないで癇癪を起こし
知恵の輪を破壊する行動をとる筋肉ムッキムキの人の気持ちに
近くなってしまいます。
このように(どのように?笑)、論理は矛盾してなきゃ
バカバカしいくらいの非常識な可能性も許容する
器のでかいやつなのです。
器がでかいやつってのは新しい可能性が開けている。
芸能人で言えば、ビートたけしさんや、所ジョージさんみたいな
感じでしょうか?
僕が論理を大切にする理由の一つがまさにこれなのです。
『論理』と聞くと何となく融通の利かないお硬い公僕みたいな
イメージを思い浮かべるかもしれませんが、全く逆です。
論理(道具)を大切に扱い考えることで、
常識に捉われない新しい可能性が現れてくる(ことがある)。
それは同じルールを採用しているからこそ
間違いや疑問点を指摘できるのだし、
それらの批判によって新しい道が照らされるのだから。
あなたも経験あるでしょ?
間違いを指摘されたことで、新しいやり方を見つけた経験が。
この経験を仔細に遡ればそこには論理がある。
つまり新しい経験の土台にもなっているのが論理なのです。
最近は「はい、論破!」なんてコントがあるみたいですが、
アハハオホホで過ごせればよいでのですが、マスメディアの
影響力は大きいですからね。「これが論理かあ」と受け取って
しまう方が多いのではないでしょうか。
僕はこのコントを見たことはないので詳細はわからないのですが、
聞くところによると嫌味な上司がネチネチと相手を説き伏せる
みたいな内容なようです。
コントについては僕は何も言うことはないですが、
論理については一つだけ言いたいのです。
僕らが論理について絶対に誤解してはいけないのは、
論理は相手を打ち負かすことでも、
強引にねじ伏せるためのものではなく、
新しい可能性を開くために必要な道具である
ということを。
僕の知り合いの靴職人は、お客の足型をとる鉛筆ひとつも大事に扱います。
僕の知り合いの美容師は、毎日鋏の手入れします。
彼らは、自分の可能性を広げてくれる道具が鉛筆であり鋏であることを
当たり前に知っているのでしょう。
僕は小さい頃から職人や、モノを大切に扱う人に興味がありました。
「何でこんなに興味があるんだろ?」
をずーっと考えていて、その答えとして「その姿に美しさを感じるから」
でも自分一人なら納得できるんだけど、「伝える」を考えると
『美しい』は抽象的すぎて独りよがりだなあと悶々としていました。
悶々としつつも常に考え続け「どっかから光が射さないかなー」と
日々を過ごしていました。
そんな中、全く違う興味関心から手に取った論理学が
暗闇に一筋の光明を射してくれた。
「論理はコミュニケーションの道具であり、
道具は正しく使えば、すごく便利で、新しい世界が開けてくる。
だから、論理は可能性を広げるものである。」
僕はこの可能性を広げるものに『美しさ』を感じているんだ(と、
今は考えています)。
さて。
あなたがどんな仕事をしているかはわかりませんが、
僕らにとって「一番身近な道具」は何でしょうか・・・?
道具を大切に美しい人生を歩んでいきたいものですね。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
それではまた次回。
山本