18度の井戸水は冷たいのか温かいのか。
祖父の家には井戸がありました。
帰省した際、その井戸水をくみ上げるのが僕の仕事。
もちろん水道はあるけれど、夏の暑い日に祖父の家で飲む冷たい井戸の水の美味しさは今でも忘れられません。
「じいちゃん、この(井戸)水はなんでこんなに美味しいの?」
そう聞いた僕に
「そりゃ地球の水だからね。」
と、大人の特権とも言える煙に巻く答えをした祖父。
そんな祖父が
「地球の水は不思議なもんで、夏でも冬でもいつも同じ温度なんだよ。」
とも言っていたことをふと思い出しました。
同じ温度なのに違った感覚を抱く。
井戸水というものは年間を通じてほぼ18度で一定しています。
ですが、お盆の帰省で飲む井戸水は冷たく感じ、
正月の帰省で飲む井戸水は温かく感じる。
「じいちゃんが言ったこと(井戸水は年中同じ温度)は絶対に嘘だ!」
と疑い、学校から持ち帰った理科で使用する温度計をわざわざ持参して計ったこともありました。
1年がかりの壮大な実験でしたが、祖父は孫の信用を失わずに済みました。
「18度」
子供ながらに不思議に感じたものです。
「外の環境(温度)が違うんだから当たり前でしょ?」
大人になった僕らはこんな風に思います。
でも、本当に当たり前なのでしょうか?
もしかしたら、夏場に同じ井戸水を飲んだ友人は「この(井戸)水ぬるくない?」と言うかもしれないじゃないですか。
「いやいや、お前の舌バカになってんじゃないの?」で終わらせますか?
「自分は冷たいと感じる。だったら、世界中の誰もが例外なく冷たいと感じるはずだ」でよいのでしょうか?
婦人と老婆
あなたはこちらの絵は何を書いた絵だと思いますか?
有名な騙し絵ですからご存知の方も多いかとは思いますが、この絵の見方は2通りです。
「斜め後方を向いている若い婦人」か、「右を向いた老婆の横顔」です。
面白いですよね。
同じものが、別のものに見える事実。
結局、僕らは
「自分の見たいように見ている」
とも言えるのかもしれない。
同じ温度の井戸水でも感じ方が違うように。
偏った2つの態度
剛力 彩芽を可愛いと言う人もいれば、ブサイクと言う人もいる。
パンサー向井をかっこいいと言う人もいれば、かっこ悪いという人もいる。
園子温の映画を理解できる人もいれば、出来ない人もいる。
こんなの当たり前だけど、いざ自分毎となると当たり前じゃなくなる不思議。
特に、自分の意見や趣向などを否定されたとき程その傾向は強くなる。
そんなとき僕らは次の2つの態度を取りがちになる。
「相手の世界を全く認めない」
と
「自分の世界に自信が持てなくなる」
です。
前者は何となくわかると思うけど、根深いのは後者なのかなって個人的には思います。
相手の世界を認めた上で、自分の世界も認める。
この世の中で正解・不正解ってあるようでないと思うのです。
算数で言えば、
1+1=2
は正解だけど、僕らがいる現実世界に置いては必ずしも正解とは限らない。
時速100km + 時速100km は、時速200km とはならなく、実際には 199.99999999999829 km くらいになるのだから。
つまり、
「何が正しくて、何が間違っているか」
ではなく、
「相手の世界もあるし、自分の世界もある」
を常に意識することの方が大切なのではないでしょうか。
当然、どちらがいい悪いでもない。
シーソーは相手がいるから楽しいのです。
シーソーは交互に倒れながら遊ぶ遊具です。
「恋なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム」
とミスチルは歌ったけれど、相手の世界と自分の世界を行ったり来たりするから世界は面白いのです。
中年の男が一人でシーソーの片端に座っているシルエットを想像してみて下さいよ?
・・・寂しいですよね?
ここまでありがとうございました。
山本
追伸
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