無知の知



秋分の日の休日。

朝から気持ちのよい天気。

青空には所々白い雲が気持ちよさそうに寝転んでいる。

そんな素敵な休日を人も街も楽しんでいる。

「パパ、ブランコ乗るから見て!」

「気をつけなよ」

「うん、大丈夫!ほら!ほら!!」

と、そのまま空に飛び出してしまうかと心配するくらい、ブランコを勢いよく漕ぎ出す女の子。

その傾斜は30度はあるだろうか。

でも、その女の子はこちらの心配などつゆ知らず、その顔は楽しげに、そして、少し誇らしげに見えます。

パパはその光景を微笑ましく見ながら

「すごいねー」

と褒めていた。



こんばんは、山本です。

僕らは、自分の「出来ること」「知っていること」をいつの間にか「知って」います。

「それ知ってるよ」「そこ知っているよ」

日常で繰り広げられる当たり前の会話。

こんな些細で当たり前の会話だけど、この行き着く先は全能感なのかもしれません。

人より多くの情報を知っている。

ちょっと前に流行った「雑学」。

雑学知識を披露する人が増えた時期でもありましたが、そんな彼らに対して少なからずの人はイラっとしたのではないでしょうか。

上から目線。

「オレはこんなに多くのことを知ってるんだぜ!」的な。



ただ雑学ブームが過ぎた今、

情報はいつでもアクセスできるという全能感が充満している

と思う。



僕の友人は、大学病院のERに勤務しているのだけれど、そこに配属された新人ナース達は薬品名とかを覚えないらしいです。

薬の誤投与が問題視されて暫く経ちますが、それを受けて今はバーコードによる3点チェック投与が当たり前の時代ですから、

新薬が次から次へと開発される昨今に、イタリア人の名前ばりに覚えにくいカタカタを覚えるのは難しいのはわかります。

でも、覚えない理由はそこじゃなく、「スマホで調べればわかります」的な感覚なのだそうです。

わからなければスマホで調べる

こういった行為の根幹には、「自分はバカだから」ではなく、

  • 自分はあらゆる情報を持っている(アクセスできる)

という全能感だと思います。

そして、こういった人間の行き着く先は、人は無意識的に生きれば怠惰に逆らえず、石ころがどこまでも坂道を転がるように、重力の言いなり、奴隷となる。

「無知の知」

ビジネスでも、自己啓発でも、宗教でも、人間関係でも、どんな文脈においても語られるソクラテスの言葉。

もしこの言葉を聞いて「知ってます」と思ったならば、もう一度、その「知っている」を考えてみて欲しい。

もし「無知の知」を本当の意味で腑に落としているのなら、ブランコをこぐ子供に対して「すごいねー」という言葉に疑問を感じるのではないでしょうか?

だって、「凄いね」の裏側には、「自分は既にできる」という「上から目線」が含まれているのだから。



僕は今週末(28日)に「アドラー心理学は僕らにとって有用か?」というディスカッションをメインとしたイベントを開催しますが、

これは別に「アドラー心理学を学んで賢くなろう」といったものではなく、参加者同士の対話を通じて、ある種の絶望感を味わおう

「人とわかり合うのって難しいな」

を体験しようじゃないかと。

自己啓発本を読んでも活かすことができないのは、多くの場合は知識だけで終わってしまうから。

正に「無知の知」と同じ。

知ったつもりは、それはそれで優越感を味わえるかもしれないけれど、その優越感をどんなに積み上げたとしても「・・・で?」とならざるを得ない。

それじゃわざわざ1500円も払って『嫌われる勇気』を買って、時間を費やしてまで読む意味はないと思うのです。

それこそお得意のスマホで似たような知識は無料で手に入る訳ですから。

知識は使ってなんぼ

ヨーロッパ貴族のご贔屓で、4世代続くヨーロッパ靴職人の美しい靴だって、履く機会なければ意味がありません。

履いて初めて、靴に入る皺の美しさ、足を包み込む革の優しさ、履いたときに背筋が伸びる感覚、そういった靴の美しさを改めて理解できるものです。

(見て愛でる対象としての靴もあるかとは思いますが)



スマホの普及により知識は誰でも無料で手に入るようになりました。

そんな時代に知識ばかり求めても意味はありません。

その知識を活かす場所、その知識を腑に落とせる場所。

28日のイベントはそんな場所にもしたいと考えております。

もしご興味がありましたら。

イベントは終了しました。



それでは、ここまでありがとうございました。

また明日。

山本



「人智の価値は極少もしくは空無であるということに過ぎないように思われる。」(ソクラテス)

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