大衆の反逆 〜3章 時代の高さ〜

大衆の反逆

大衆の反逆
著者:オルテガ・イ・ガセット
訳者:神吉 敬三
発行:筑摩書房

-大衆の反逆 目次-

■第1部 大衆の反逆

  • 01章 充満の事実
  • 02章 歴史的水準の向上
  • 03章 時代の高さ
  • 04章 生の増大
  • 05章 一つの統計的事実
  • 06章 大衆人解剖の第一段階
  • 07章 高貴な生と凡俗な生-あるいは、努力と怠惰
  • 08章 大衆はなぜすべてのことに干渉するのか、しかも彼らはなぜ暴力的にのみ干渉するのか
  • 09章 原始性と技術
  • 10章 原始性と歴史
  • 11章 「慢心しきったお坊ちゃん」の時代
  • 12章 「専門主義」の野蛮性
  • 13章 最大の危険物=国家

■第2部 世界を支配しているのは誰か

  • 14章 世界を支配しているのは誰か
  • 15章 真の問題は何か

こんにちは。
山本です。

先日とあるアジア料理屋での出来事。

宴会制限時間を過ぎた6名の男女に対して、

「お次のお客様がお待ちですので・・・」

満席でもないし、ウェイティングがいるわけでもない、明らかに追い返したいだけのていのよい決まり文句。日常よく見かける光景かもしれませんが、こんな対応された店には二度と行きたくないと思うのが人の常。
(僕が見る限り、素行が悪い集団には見えませんでしたし)

ピークエンドの法則じゃないですけど、人はピーク(一番盛り上がった時)とエンド(終了間際)の記憶が残りやすいわけですからね。

折角、予約までして来てくれたのですから、

「コースは終了しましたが、このままご宴会を続けますか?」

と提案すれば、お客もそのまま宴会を続けることも可能だし、お店側としても売り上げアップに繋がるし、どちらも損しないのになぁ〜と考えてしまいました。

まっ余計なお世話かもしれませんけど(笑)。

それでは本日の内容いってみましょう!

1.要約

【3章 時代の高さ 要約】
 我々の時代は、過去のどの時代より生を感じるあまり過去の模範や規範への敬意を失う。その結果、全ての時代よりも優れていると感じながらも、過去との断絶により何事も一人で解決しなくてはいけない事に確信が持てないのである。

2.牛丼屋での風景

キン肉マンが「♪牛丼一筋300年、早いの、美味いの、安いの〜」っと歌っていた時代から牛丼業界も様変わりし、競合は増え、サイドメニューも充実し、単身男性から女性、ファミリー層もターゲットとし、そして、今では280円も出せば並盛りが食べられる時代です。僕が中学生の頃は牛丼が並盛り400円程度だった記憶していますが、お金だけを基準にすれば、自炊するよりも安いわけです。味、品質が落ちたなどと言われていても、手軽にがっつり食べたい男性にとっては無くてはならないファストフードの一つが牛丼であるわけです。

もちろん、ファストフードばかりを食べていては栄養も偏り健康を害し、何より、心が寂しくなることは食べている本人が一番わかっているとは思うのですが、あの手軽さは僕らを魅了するわけです。

あなたも平日の夜、牛丼屋の前を通ると会社帰りの男性が一人黙々と食べている姿を見たことありますよね?確かに、21時まで残業して、家に着くのは22時過ぎ。いくら健康の為とはいえ、それから自炊する気にはなれないのが人というもの。見方によっちゃよい時代に生まれたものです。24時間好きな時に好きなモノを手軽に食べれるわけですから。

僕はファストフードを推奨はしないけれど、食べることを否定するつもりはありません。否定はしないのですが、一つだけ注意したいことがあります。それは、

スマホを見ながら食べるのはやめなさい。

僕は子供の頃、食事中にテレビを見ていたら父親に怒られました。こんな当たり前に教わってきたことが大人になるとできなくなるものなのでしょうか。ファストフード店に一人でいる人を見て下さい。9割はスマホいじりながら食べてますから。「○○しながら」は行儀が良いものではありません。している本人は気にはならないのかもしれませんが、周りから見たら気持ちよいものではないのです。もっと言えば、

家で一人で食べる時でもスマホをいじるのはやめなさい。

誰も見ていないからとか、一人だからとか、暇だからとか、そんな言い訳は悪い何かを生み出すことがあっても、善い何かを生み出すことはありません。幼き頃に注意された当たり前のことを当たり前に実施することが社会では大切で、それは巡り巡って自分自身にとっても大切なこととなるのです。

なぜか?

それは、自分一人で生きているかのように振る舞う人(大衆)には、人生において真に求めるものは見つけ出せないからです。

オルテガは『3章 時代の高さ』において

 自分が過去のどの生よりもいっそう生であると感じるあまり、過去に対するいっさいの敬意と配慮を失ってしまったのである。

(『3章 時代の高さ』より一部抜粋)

と言っており、これが大衆誕生の背景にあると考えています。

牛丼を食べれることが当たり前すぎて、食事に対するマナーを失ってしまった人を大衆と言わずなんと言えばよいのでしょうか。

そして大衆的な行動をしている人には常に何かしらの不安、不満が付き纏うはずです。それは大衆の反逆を読み進めていけばきっとわかることでしょうし、何より、大衆は常に何かに満たされたい、何かが自分を満たしてくれると考えているからです。特に、

「お金が欲しい」

誰しもが自然にこれを求めてしまうかもしれませんが、そこには僕らが求めるものはないと思うのです。

僕は昔お金が欲しくて欲しくてたまりませんでした。お金があれば不安、不満が全て解消されると考えていました。そんな僕も今では多少なりともお金を持っています。豪華なマンションで高級カーを乗り回すような生活はできないけれど、明日の生活に困りませんし、欲しいものならある程度買えます。その結果、あの当時考えていた「お金があれば幸せに生きられる」は今は実感として間違いだとわかりました。お金があるから幸せなのではなく、幸せがあるところにはお金も付いてくるのだと。それはオルテガからも学ぶことができます。

 真の生の充実は、満足や達成や到着にあるのではない。セルバンテスは、かの昔に「宿屋より道中の方がよい」といっている。自己の願望、自己の理想を満足させた時代というものは、もはやそれ以上は何も望まないものであり、その願望の泉は涸れ果ててしまっている。

(『3章 時代の高さ』より一部抜粋)

お金自体には充実はないのです。僕らはお金など表面的なモノではなく、もっともっと深いレベルで自分のやるべきことを探すべきなのです。

  • 誰も大衆的要素満載の人に憧れは抱きません。
  • 誰も大衆的要素満載の人と一緒にいたいとは思いません。
  • 誰も大衆的要素満載の人に何かを与えたいとは思いません。

僕らはいつでも、どんな時でも、どんな事情があろうとも、正しいことをすべきであるのです。

まずは食事中にスマホを見るのをやめてみてはいかがでしょうか。

その小さな正しき行動がいつかは生の充実に繋がることを信じて。

それではここまで読んで頂きましてありがとうございました!



次回は『4章 生の増大』です。

2013年5月20日
山本 和広

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