YUIとジョジョ展

こんにちは。
山本です。

久しぶりに映画を観てきました。

007スカイフォール1

いやー今の僕の興味がそうなのか、ダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドが魅力的だったのかはわかりませんが、今回はトム・フォードのスーツにしか眼がいかなかったですね。

僕はファッション評論家ではないので、スタイルやディテールなどの点に関して兎や角言う事はしませんが、今回のボンドも純粋に「かっこいい」と思えたのは、どんなシーンに於いてもトム・フォードのスーツがボンドをボンドたらしめていたのですよね。

007スカイフォール2 007スカイフォール3

007を1回も観たことない人にでも、「ジェームス・ボンド」だと納得させる事ができる。

自己とはその人に関わる全てである。

僕らもこのような着こなしができるように自分を高めていきたいですよね!

ちなみに、あれだけのアクションシーンでもジャケットの袖がずり上がらないという点を見るだけでも勉強になるかと思います。



ではでは、クリスマス・イヴの朝9:30から、六本木で一人映画を観ていた私山本がお届けする本日の記事いってみましょー。

1.YUIのインタビュー記事

僕にとってYUIさんは気になる存在です。

お会いした事もないですし、ライブに行った事もありません。もっと言えば、CDを買った事もないし、曲も数曲しか知らないのが実際のところです。

でも気になる存在なのです。

「それって単に外見がタイプというだけじゃないの?」

と言う陰口は聞かなかった事にして(笑)、もしYUIさんの歌っている姿を見た事がないのであれば、ちょっと検索してみて下さい。

僕がYUIさんに惹かれる理由がそこにあります。
なんとなくでもよいのであなたと共有できたら嬉しいです。



さて。

そんなYUIさんがとある雑誌のインタビューでこんな事を語っていました。

今までいろいろ考えてきた中で感じるのは、自分が変わることはできても、人を変えることはできないってこと。

(中略)

誰かの背中を押したいと思って書く曲はあっても、それで人を変えてやろうとは思わない。

(o:kun no.10から一部抜粋)

YUIさんのインタビュー上2行部分は、あなたも一度や二度は聞いた事あるフレーズですよね?

このフレーズに疑問、違和感を持たなかったのであれば、それはあなたにとってフレーム化されているという事です。

もっと噛み砕いて言うと、疑う余地、疑問を持たないくらい「常識化されている認識」という事です。

こういった認識がよいか悪いかはとりあえず脇に置いておき、常識化されているくらい当たり前の事なのに、我々は実際の生活に於いて「相手を変えてやろう」としてしまうんですよね。

大なり小なりあなたにも心当たりがあるはずです。



僕の場合の一例を挙げれば、箸の持ち方が下手な友人に対して「変えてやろう」と都度注意をしていた事がありました。

いい歳ぶっこいた大人が幼稚園児みたいな箸の持ち方をする事は、彼にとってマイナスになる事はあっても、プラスになる事は絶対ないと思うから注意していたのですが、一向に改善する兆しはありませんでした。

ただ今思い返してみると、僕のこの行動は彼の為ではなかったのです。

箸の持ち方が下手な人と同じテーブルを囲っている僕自身も、周りから「その程度の人間」と思われる事を嫌がった故の注意だったから、彼には伝わらなかった。

それは最近正しく箸を持つ彼の姿を見た事によって至った考えです。

箸の持ち方を直した明確な理由は聞いていないけど、なんとなく察しがつきます。

それは彼が人の親となったからです。

子は親の鏡と言うとおり、親が下手なら子も下手になるはずです。

挨拶をしない子供の親が挨拶しないように。

食事マナーというのは人間が社会生活を行う上で大切な礼節です。子供が誕生した事によって彼の中に「子供の為」という視点が生まれた。その結果の変化だったのでしょう。

では僕の注意時と何が違ったのでしょうか?

もうお気づきですよね?

そう、その行動の一義目的が「自己の為」か「他者の為」かの違いです。

僕の注意の場合、表面的には彼の為にと注意をしていたが、内心は自分の為であった。それってやっぱり伝わるのですよね。彼にとったら「あーまた山本が偉そうに文句言ってくるよ」といった具合だったのだと思います。

これじゃもし彼に変える気があっても、嫌になってきますよね。

じゃ僕はどうすればよかったのか?

この問いに関してもYUIさんのインタビュー記事にヒントがあります。

誰かが夢に迷ったり、挫折しそうな時、そこに私の曲が寄り添っていてくれたらいいですね。

つまり、僕は彼の事を想い、言葉で注意すると言う事をせず、自らの態度で接するだけでよかったのです。

一緒に食事している時、僕なりのマナーで食事をし続ければ、きっと彼は僕を見て

「あっ自分の箸の持ち方ってなんか変」

って気付く事があったはずなんですよね。自分から気付いたら後は変わるだけですから簡単です。

どうですか?奇麗事だと思いますか?



僕らは言語(言葉)というコミュニケーションツールを持っている為か、言語(言葉)を絶対化しがちです。

ただ考えてみて下さい。

単なる音としての言語(言葉)で、あなた自身変わろうと努力した事ありますか?

「健康の為にジョギングした方がいいよ」

でジョギングを始めた人はいないように、

「将来の為に貯金をした方がいいよ」

で貯金を始めた人がいないように、

「一度きりの人生だからやりたい事を思いっきりやろう」

で人生を切り開いた人はいないように、

人は言葉だけでは変わる事は出来ないのです。

勿論、健康の為にジョギングを始めた人はいるでしょうし、将来の為に貯金を始めた人もいるでしょう。また、自分の人生に責任を持つ為に考えを正した人もいる事でしょう。

ただそれは、その人にとって健康とジョギング、あるいは、将来と貯金、あるいは、人生と自律に対しての何かしらがあって、何かのきっかけ(例えば、憧れの人がジョギングをしていた等)によって始めたのであって、単なる音としての言語(言葉)だけで始めたのではないという事です。

僕の友人が僕の注意で箸の持ち方を変えなかったように。



僕らはどうしても易きに流れる弱き生き物です。

今の現状を変えるのは非常にしんどいです。その為、自分を変えるより、相手を変えるほうが簡単だと認識をすり替えてしまうのです。

ただ僕らは相手を変える事は出来ないという現実を今回改めて認識しました。この認識があなたにとっての何かしらのきっかけになれる事を祈って、この章の最後に改めてYUIさんのインタビュー記事をご紹介します。

YUIさんの作品に対する態度に触れることの出来る一文だと思います。僕らの人生にも活かしたいですね。

今までいろいろ考えてきた中で感じるのは、自分が変わることはできても、人を変えることはできないってこと。だから、私は私なりに闘いながら、楽しく納得のいくものをつくるしかないんじゃないかなって思うんです。誰かの背中を押したいと思って書く曲はあっても、それで人を変えてやろうとは思わない。誰かが夢に迷ったり、挫折しそうな時、そこに私の曲が寄り添っていてくれたらいいですね。

2.「ジョジョ展」荒木飛呂彦は背中で語る。

さて1項の記事を読んだあなたには

「『相手を変える事はできない。』うん。確かにわかるけど、、、じゃどうしたらいいの?」

という疑問が生まれたかもしれません。その疑問に対して僕なりの見解をご説明させて頂きます。

と言っても改まって説明する事でもないんですよね。だって1項で言っちゃってますから。

それは、箸の下手な友人の例をお伝えした時の、「僕は彼の事を想い、言葉で注意すると言う事をせず、自らの態度で接するだけでよかったのです。」という箇所です。

簡単に言うと、

  • 背中で語れ

と言う事です。

YUIさんが

「私は私なりに闘いながら、楽しく納得のいくものをつくるしかないんじゃないかなって思うんです。」

と言ったように、

中尾 彬が

「美味さを語ると野暮になる。」

と言ったように、

結局僕らは背中で語るしかないのです。



僕は10月に開催された荒木飛呂彦先生の原画展「ジョジョ展」で「背中で語る」を体験・経験しました。そこにあった原画は正に「背中で語る」だったのです。

ジョジョ展


ジョジョという作品に好き嫌い、合う合わないはあるかもしれませんが、そんな事はどうでもよく、原画の1枚1枚に荒木飛呂彦の生が宿っていました。

ジョジョ展に展示してあった原画は書下ろしを除いたら、大体は目にしたことある作品でしたが、そこにあった作品は目にした事があるだけで全くの別モノでした。

荒木飛呂彦先生はこんな事を言っています。

「原画になるべく近づけて印刷してください」と注文とかお願いしても限界はどこかにあって、それがマンガ原稿の宿命であって、ルールです。

(HIROHIKO ARAKI WORKS 1981-2012 「はじめに」から一部抜粋)

僕が展示会場でジョジョ第2部の原画を見ていた際に、隣にいた男性が

「ほんとうに光ってるみたいだ」

と呟きました。この一言は僕がここであなたに伝えたい全てを含んでいます。

「コピーは劣化する」じゃないですが、印刷技術がどんなに発達しても、実際の体験・経験にはかないません。つまり荒木先生が言う「限界はどこかにあって」は、この体験・経験の壁をコピーは越えられない、という事です(あくまで私見です)。

その作品はコミックスで何度となく見た事あるものでしたが、コミックス上では決して光ってはいなかった。光っているように書かれてはいるけど、実際に光ってはいません。

しかし、原画は光っていたのです。

光っているように書かれているから、実際に光っている。

これが生とコピーの差なのです。

この荒木先生の原稿執筆中の写真を見て下さい。

荒木飛呂彦
(JOJOmenonから写真引用)

この鬼気迫る表情。

学生時代に体育会系の部活に所属していた人なら共感し易い感覚かもしれません。

追い込んで追い込んで追い込んで、尚追い込んで。

その結果が原画なのですから、原画には荒木飛呂彦そのものが宿っているのです。

荒木飛呂彦が言葉で兎や角言わなくても、ジョジョという作品が荒木飛呂彦を語るのです。

そりゃ生とコピーに差があるのは当然ですよね。



ただここで1点だけ誤解して欲しくない事があります。

コピー作品(マンガ、複製原画など)は荒木飛呂彦を語れないのか?

という点です。

結論から言ってしまえば、もちろんそんな事はありません。もしそうだとしたら、普段コミックスしか見れない我々がジョジョ(荒木飛呂彦)に惹き付けられる理由に説明がつきません。

それは背中で語る事の出来るステージの大きさと関係があります。

ステージが大きければ大きいほど、より多くの人に語りかける事が出来る。

より多くの人に語りかける事が出来るという事は、コピーに対する耐性も高いという事です。

例えば、伝言ゲームで僕と荒木先生が「人には優しくしなさい」と同じ事を言った場合、僕の言葉は3人目くらいで「ある特定の人に対して優しくしない」と劣化していってしまう。一方、荒木先生の言葉は10人目まで「人には優しくしなさい」ときちんと伝える事ができる。こんなイメージでしょうか。

荒木飛呂彦の背中はコピーによる劣化を踏まえても尚僕らに語りかけるのです。

でなきゃ一漫画家がGUCCIやルーヴル美術館とコラボできる訳ありませんよね。



ただ僕らはこういったある種の天才を目の当たりにすると

「彼には生まれつき才能があるから」
「僕には才能がないから」

などと出来ない理由を探してしまいがちです。

これほどの苦しい思いをして何かを生み出す努力をした事が今までにあるか?と自分自身に問うた時、自信を持って「はい」と答えられない事も原因の一つかもしれません。

ただここで一歩踏ん張りましょう。

きっと僕のこの文章を読んで下さっているあなたは凡人でしょう。

それは何もあなたをバカにして言っている訳ではありません。だって書き手の僕が凡人なのですから。類は友を呼ぶじゃないですが、凡人は凡人と出会うのです。

そんな凡人の僕らが、いきなり荒木先生レベルの何かを生み出す事は出来ないかもしれません。

だからといって僕らが「背中で語る」事が出来ないと言うつもりもありません。

  • スーツ姿で毎日出勤していたお父さんの背中がかっこよかったように、
  • 毎日台所でご飯を作ってくれていたお母さんの背中に温もりを感じたように、
  • 街で見かけた靴磨き職人の動作に美しさを感じたように、

僕らは一人一人毎日背中で何かを語っているのです。

なにもYUIさんや荒木先生が特別な訳ではありません。

もちろん先程ご説明したとおり、人それぞれ背中で語れるステージに違いはありますが、社会で生きている限りあなたの背中も必ず何かしらを語っているという事を忘れてはいけません。

仮にニートだったとしても、ニートである背中が社会には何かを語りかけているのです。

そう、僕らは自分の背中に責任を持つべきなのです。

箸の持ち方が下手だった僕の友人は、自分の子供に対して箸の正しい持ち方を背中で語る必要があり、正しい箸の持ち方に直した。

それは子に対する責任とも言い換えられます。

また僕は最近知人に「どうしたら自分の活動をもっと広める事が出来るでしょうか?」という相談を受けました。僕はその知人に

「背中で語るしかないと思います。」

とアドバイスしました。そのアドバイスを聞いた後の彼の表情を見ると、彼の求めていた答えとは違ったものだったのかもしれません。明らかにきょとーんとしてましたから。きっとビジネスビジネスしい回答を期待していたのでしょう。

もちろんビジネス手法は活動を続ける上で必要かと思いますが、まずは「背中で語る」という土台を認識しておかないと、どんな方法もぶれるだけです。土台の認識を怠ると、その活動自体長続きしないでしょうし、結果彼のお客様も裏切る事になってしまうのです。



あなたがサラリーマンだとしても、OLだとしても、主婦だとしても、教師だとしても、フリーターだとしても、起業家だとしても、自営業だとしても、ニートだとしても、漁師だとしても、農家だとしても、医者だとしても、セラピストだとしても、マッサージ師だとしても、教育者だとしても、学生だとしても、料理人だとしても、あなたの背中は何かを語っています。

つまり社会に生きている以上、背中には責任を持つ事が大切であり、人を変える事は出来ないのだから、自分の背中で語れるステージを少しずつでも大きくして、より社会に対し貢献する必要が僕らにはあるのです。



荒木飛呂彦先生の背中と僕らの背中では世界に語りかける範囲に大きな差があるかもしれません。

だからと言って自分を卑下する必要は全くなく、今の僕らが行う事は目の前にある事を一つずつ全力でこなしていく事。

それが僕ら一人一人の責任なのです。

この責任という概念に於いては、あなただろうと、YUIさんだろうと、荒木飛呂彦先生だろうと、僕だろうと変わらないのです。

決して大きい小さいといった定量化できる概念ではないのですから。



それではここまで読んで頂きありがとうございました。
また次回もよろしくお願いします。

2012年12月26日
山本 和広

YUIとジョジョ展 まとめ

  • 自分を変える事は出来るが、人を変える事は出来ない。

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