隣の芝生は青い
こんにちは。
山本です。
隣の芝生は青い
他人のものは何でもよく見えるという意味ですが、まー確かにそう考えたくなることも多々ありますよね。
学生時代を思い出しても、
- あいつは○○ちゃん(すっげー可愛い子)と同じクラスで羨ましよな。うちのクラスには可愛い子なんて一人もいねぇーよ!
- 隣のクラスの担任はやさしくていいな~
- あいつの学校、服装検査ないんだって。
社会人になっても、
- あの会社定時で帰れるくせに給料いいんだって。うちなんて・・・
- 儲かってる会社は違うよなー。社内もお洒落だし、場所もいいし。転職してぇー
- あいつは上司にも部下にも恵まれてるな~。それに比べ俺なんて・・・
芸能人に対しても、
- あの人はかっこいい(かわいい)から。それに比べ俺(私)なんて・・・
- 歌が上手いから歌手になれるんだよ。俺(私)には才能ないからな・・・
- 生まれ変わったら○○のようになりたい!
とまぁ数え上げたらきりがないくらい、隣の芝生は青く見えるものです。とはいえ現実問題、自分という自己は今置かれている今のこの環境にしか存在していないわけですから、他を羨ましく思ったってしょうがないわけです。
そんなことわざわざ僕から言われてなくても、あなた自身よーくわかっているかとは思います。
なのに多くの人が現状に満足できず、隣の芝生が青く見えてしまうのはなぜなんでしょうか。それは、
自分が今置かれている環境(=満足していない現状)を他の所為にしたい
という自己責任逃避が大きな理由の一つだと僕は考えます。だって人の所為にするのって楽ですもんね。
魔法の言葉「あいつの所為だよ」
また、僕らが生きているこの時代はニヒリズムが蔓延する世の中だといわれていますが、そんな時代には、僕らが根源的に欲する生き方(=幸福な生き方)をしている人に対して熱狂が生まれます。これは裏を返せば、現実を軽視している生き方ともいえると思います。それは、
隣の芝生は青く見え、自分の芝生は全く見えていない。というか、自分の芝生は存在すらしていない
という事です。僕ら社会的動物である人間はコンフォートゾーンがなくては心理的に快適に過ごせないといわれていますが、ゾーン(区域)というだけあって区域を形成するに必要な基準が必要なわけです。隣の芝生が青く見えるのであれば、その基準が自己の芝生になるのが必然ですが、その自己無存在(=自分の芝生が存在していない)が多くの現代人の特徴とも言えるのです。
そう考えると自分の芝生が存在していないのだから、何をどうしたってこれから好転するとは到底思えませんよね。
自分自身の芝生を明確に認識している人であれば、環境を主体的に変えるのは体験・経験するという意味で非常に有益なものとなるでしょう。
ただ、自己の芝生もわかっていない状況で、無責任に環境を変えても、また同じような状況が待っているだけだと僕は思います。だって、地に足着いていないわけですから。
「他人を兎や角いう前に、自分自身はどうなんだ」
と自己に問いかけることも生きる上では必要な作業だと僕は考えます。
山本 和広