わたしたちが正しい場所に花は咲かない

こんにちは。
山本です。

ちょっと前、丸善日本橋店に文具を買いに行きました。友人へのプレゼントが目的だったのですが、やっぱり歴史・伝統がある文具に触れると文字を丁寧に書こう、という意識が否応なしに高まります。よく「文は人なり」なんて言いますが、あわせて「文字も人なり」だと僕は思うのです。というのも僕の母はよく他人が書いた字を見て「やさしい字を書く人だね」といった感想を言います。その感想がはたして文字を書いた人を言い当てているかはわかりませんが、やっぱり文字には何かしらその人となりがでるんだなーといつも母の呟きを聞くと思う次第なのです。

余談ですが、外見に関しても同じことが言えると思います。「外見(服飾)でその人を判断してはいけない」といった類のことをあなたも1度は聞いたことあるかとは思います。この意見を100%否定すると周りからは、「歪んだ人」「見た目だけで判断するなんて下品な人」というレッテルをはられるかもしれません。まっ確かにそういった意見が出ることもわかるといえばわかるのですが、正直に言います。僕はある程度人を外見で判断する人間です。こうはっきり言うと軽蔑されるかもしれませんが、例えばですよ、あなたも次のような人を見かけたことありませんか?ヨレヨレのスーツに、襟袖が黄ばんだシャツを着て、ネクタイもヨレヨレのサラリーマンを(電車によく乗る人なら直ぐに想像できると思います)。ではもしあなたの元にこういったサラリーマンが何かを販売しにきたらその人から買いますか?ということです。不景気でスーツをクリーニングに出せないのでしょうか?お小遣いがないのでワイシャツが買えないのでしょうか?でもそういった人に限って電車の中でゲームやらスマートフォンやらで時間をつぶしているわけです。これが僕が外見で人を判断するという一つの理由です。

ヨーロッパでは外見を重視した文化・思想があります。それは、外見にはその人の内面が反映される、と考えられているからです。つまりTPOに合わせた外見を整えられない人は内面も未熟と判断され、その結果、相手にもされないという事です。やっぱり社会的動物として位置づけられている我々人間は、環境があってこそ規定されているのですから外見にも多少なりとも気を使う必要が僕はあると思います。
(別にお洒落になれ、とかいいたいわけではなく、社会があなたに何を要求しているのかを考えてください、とお伝えしたいだけですので、その点誤解なきようお願いします)

で。

丸善の話ですが、結局友人には実用性を考えて万年筆ではなく、ボールペン(油性)を購入しました(水性ボールペンとも迷ったんですけどね)。やっぱりボールペンの方が使う頻度が高いでしょうし、使ってもらった方が僕も文具も嬉しいですからね。万年筆は次回自分へのプレゼントとして買いたいと思います。字が下手なので丁寧に書く意識を持つ機会を少しでも多く持つ、という自戒の意味も込めて。あとこれは僕の勝手な感想ですが、丸善日本橋店の文具売り場にいる店員さんの対応にはけっこう満足しております。1つ1つ丁寧にメーカーの特徴や歴史も話してくれましたからね。やっぱりこういう接客をされると、次回もまた丸善で購入したいと思うのが人の心情です。

ではではちょっと前置きが長くなりましたが、本日の読書考察はこちらです。

わたしたちが正しい場所に花は咲かない

わたしたちが正しい場所に花は咲かない
アモス・オズ 著
村田 靖子 訳
大月書店

現代イスラエルを代表する作家アモス・オズが自分だけが絶対的に正しいと思い込み独善的に行動する狂信主義に対して、その処方箋として想像力とユーモアが必要だと提案する内容の本です。

今尚続くイスラエル・パレスチナ問題の中で、実際にその環境にあり、また自身も兵役経験を持っているからこそ、この言葉に重みがあると僕は感じました。ほとんどの日本人はイスラエル・パレスチナ問題に関心がないかもしれません。また例え関心を持ったとしてもやっぱり自分と遠くかけ離れた問題のように感じてしまい、今の自分に何を活かせばよいのかわからないかもしれません。ただ、アモス・オズも本書で言っていますが、狂信主義は何も国家間、民族間だけでの問題ではなく、ごく一般の人間関係においても起こる、誰しもが潜在的に持っている悪い遺伝子です。それを踏まえ、あなたなりに咀嚼し何か感じ取って、そして生み出していただければ幸いです。

それでは、僕なりの読書考察は以下からです。

1.花を咲かせるには

先ほどもちょっと書きましたが、狂信主義の定義は、

「自分こそが正しい」と思い込み、独善的に行動すること

です。狂(くるった)信(しんじる)でもわかると通り、絶対に自分が正しいと盲目的に、そして独善的に考えるのが特徴ですね。ただ狂信主義を考えると必ず、

自分の意見・信念を持つことは悪いこと?

って疑問が浮かんでくるかと思います。まーちょっと考えればわかることだとは思いますが(本書でもアモス・オズが明確に説明してくれていますし)、別段意見・信念を持つことは悪いことではありません(というか信念は持つべきです)。ただその信念・意見に対して

絶対に妥協しない独善的思想に狂信が宿る

ということです。こういわれるとちょっとドキってした人いるんじゃないでしょうか。だって普段生活するうえで、自分の意見を押し通す場面って結構あると思いませんか?正直・・・僕はあります。いつもその都度反省するわけですが、そのくらい狂信主義というのは身近な問題なのです。

また、狂信主義は自分以外を何が何でも変えたい、とも考えます。その変える方向はもちろん自分が信じる方向にです。そして、狂信主義は変化も嫌います。世界を「自分が信じるもの」と「その他」としか認識できなく、変化した人(「その他」)を裏切り者と認識するのです。つまり狂信主義は自己を持たなく、理性より情を重視する程度の低い人間によく現れるとも換言できます。

例えば、僕の友人が数年前に付き合っていた彼女とのケンカ原因はいつもこんな内容でした。

「なんで会えないの?週に3回は会うって約束したじゃん」
「他の予定が入っちゃったんだからしょうがないだろ」

的な、よくあるケンカです(もちろんこの不毛なやり取りは永遠に続きます)。彼女にしてみたら「週に3回会うのは当たり前」なわけで、それこそ自分の意見を押し通そうとする狂信主義の現れです。まー僕の友人も約束したわけですので、100%彼女が悪いというわけではないかもしれませんし、僕(他者)ではわからない事情があるのかもしれませんが、やっぱりいつも双方主張に妥協点を見出そうという努力はなく、程なくして終焉という結末にたどり着きました。

他にも宗教の勧誘なんてどうでしょうか。実は僕は生まれてこの方宗教法人への勧誘を1度も受けたことがないので、全て友達の体験談ですが、やっぱり宗教勧誘者は

「こんなに素晴らしい信仰があるのだから、あなたも入信して当然だよ。」

と独善的な匂いをプンプン発しながらお誘いがくるとの事です。まーノルマがあるのかないのかは知りませんが、これじゃきちんと説明すればその信仰と合い入信したかもしれない人でも逃げちゃいますよね。例え、言葉では発しなくても、無くて七癖じゃないですが、その人の主義主張というのはやっぱり態度として出てしまうものですから。狂信主義者の何がなんでも変えてやる、的な雰囲気は他から見れば感じ取れてしまうものなのです。

上記2例でも明らかなように狂信主義に関しては、意見を押し通した方、意見を受けた方、双方同時に幸せは訪れていないという事に気づくと思います。そう、それが本書の題名である

わたしたちが正しい場所に花は咲かない

そのものなんです。

では、そんな僕らの身近に潜む狂信主義に対するものとして、アモス・オズは想像力とユーモアが処方箋となる、と論じています。具体的には、

  • 心をオープンにして
  • 相対主義(自分が100%正しいと思っても、相手を必ず考える)
  • 自分を笑う

という柔軟な心が大切だという事です。これを僕なりに解釈すると、

  • 中庸(ちゅうよう)

という概念が大切だと考えました。つまり、自分も他者も同じ距離で見れる視点を養うこと、という意味です。「自分と他者を同じ距離で見るって?」と不思議に感じるかもしれませんが、他者だけではなく自分をも客観的にみる努力をするということです。どんな状況であれ、常に「相手はどう考えているのだろう」そして、その時「自分はどういう考え・立場を持っているのだろう」という視点を忘れないことが、僕らにできる唯一のことではないでしょうか。ちょっと言い方を変えれば

相手に興味を持ち、自分に執着しない

と表現してもよいかもしれません。これは些細な事でもかまわないと思うんです。例えば、友人と一緒に行くレストランを決めるとき、仮にあなたが「今日はイタリアンにしよう」と誘い、友人が「いいよ」と答えた場合でも、友人の立場になって考えてみる。もっと言えば、友人ですら気づいていない考えを汲み取る努力をする、ということです。もしかしたら友人も気づいていないだけで、今日はイタリアンの気分ではないのかもしれません(その際、自己を客観的に見る視点も忘れてはいけません)。こう聞くとあなたは「そんなんどうしょうもないじゃん」と思われるかもしれません。確かに明確な答えがあるわけでないので、すごく苦しい作業となることは確かです。だけどその視点を忘れてはいけないのです。忘れることが、狂信主義につながり、そして僕らの場所に花が咲かないのですから。

もちろん、日々注意している(つもりの)僕だって気がつけば狂信主義に陥っていることがあるわけですから、偉そうに言えた義理ではないのですが、狂信主義は自分との距離が0mとというイメージです。自分しか見えていないわけですから、そりゃすでに狂信ですよね。そうならないように自己と距離を一定に保ち、あわせて他との距離も忘れないという事です。

得てして僕らは自分の距離で他を規定しがちです。別の言い方をすれば、「自分の物差しで他を計る」ってやつです。これでは、例え自己との距離がはかれたとしても台無しです。簡単そうに見えて、かなり難しい視点だと思います。具体的にどうすればいいの?と質問されても先ほどのような例しか答えられなくて申し訳ないです。もし、少し抽象度を上げてもよいというならば、やっぱり自己を高める(勉強)しか方法はないと思います。そしてこれができるようになると、自分も他人も、そしてその周りの環境もよりよく見ることができ、その結果、僕らが正しいと思った場所に花が咲くのだと、僕は考えます。

以上、『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』の読書考察でした。
ここまで読んでくださりありがとうございました。

2010年12月29日
山本 和広

読書考察

  • 狂信主義に陥らないためには、自分も他者も同じ距離で見れる視点を養う努力が必要

コメント


認証コード1740

コメントは管理者の承認後に表示されます。