『借りぐらしのアリエッティ』の可能性を閉じない・閉じさせない

こんにちは。
山本です。

今回も前回の『告白』に引き続き映画に関する日常考察です。2回続けて映画作品を考察対象とさせていただきましたが、映画考察にならないように気をつけます(笑)。といっても、今後も映画を観るでしょうから、その都度、日常考察のネタとなる可能性が高いと思います。その点はご了承くださいませ。勿論、考察対象にならないようなくだらない映画は取り上げませんのでご安心を。

ではでは、さくっと本日の日常考察いってみましょう。

借りぐらしのアリエッティ


借りぐらしのアリエッティ
監督:米林 宏昌
企画・脚本:宮崎 駿
プロデューサー:鈴木 敏夫
制作:スタジオジブリ

スタジオジブリの最新作として公開された今年の夏休み映画の目玉の一つである『借りぐらしのアリエッティ』。日本が世界に誇る言わずと知れたスタジオジブリの最新作ですから、そりゃ大衆は無責任に“期待”を寄せてしまいます。「ジブリ=宮崎 駿」みたいな図式が出来上がってしまっている人がほとんどだと思いますが、『借りぐらしのアリエッティ』の監督は別の人です。スタジオジブリが抱える後継者問題に一筋の光明が見えてきたと思わせる37歳の若手監督(米林 宏昌監督)の作品です。

まだ公開されたばかりなので見てない方もいるでしょうから、作品の内容はお伝えしません。ただ、一応考察内容にも関連しますので、宣伝で使われているコメントを以下に記載します。


 ぼくは、あの年の夏、
 母の育った古い屋敷で
 一週間だけ過ごした

 そこでぼくは、
 母の言っていた小人の少女に
 出会った

 人間に見られてはいけない
 それが床下の小人たちの掟だった



うーーん。

この台詞とあのジブリ独特の世界観漂う絵。これだけでジブリファンの方は見ないわけにはいかないのでしょう。スタジオジブリ(ここでは“スタジオジブリ=宮崎駿”と置き換えてもいいかもしれません)は一貫して“子供の視点”に重きを置いた作品を作りますから、童心を忘れてしまった大人達はその視点に夢中になるわけです。

そんなスタジオジブリ最新作『借りぐらしのアリエッティ』に関して、僕が感じた日常考察は以下となります。

友人のとある発言

「昨日さぁ、ベッドの隙間から小人が出てきてさぁ」

ある日突然、あなたの友人がこんなことを言い出したら、あなたはどういったリアクションをとりますか?ちなみにこの友人は決して嘘や冗談風でもなく、至極自然で、且つ、当たり前のように真顔で言ってきたと仮定してください。



・・・


どうでしょうか?大抵の方は、あまり深く考えずに、

「なぁーに言ってんの」

で片付けてしまうのではないでしょうか。もし、こういった受け答えをしないとしても、話を聞き流すか、違う話題に変えてしまうとか、そんな感じだと思います。

ただ、ここで1回立ち止まって仔細に状況を確認してみましょう。

まずは、あなたの「主観」をちょっと脇に置いて下さい。その状況で「昨日さぁ、ベッドの隙間から小人が出てきてさぁ」を考えてみましょう。まず、この友人の小人出てきて発言から、以下の2つの可能性が推測されます。

  1. 単なる幻覚(思い込み・うそ)
  2. 小人なるものを本当に見た

ではここで、1と2に関して、どちらが本当にあった出来事なのでしょうか。この時、良くも悪くも“一般的な主観”を踏まえて考えてしまうと、先ほどと同じで、

「なぁーに言ってんの」=「1.単なる幻覚(思い込み・うそ)」

と結論付けてしまうことでしょう。ただこれはあくまで「こちら側の主観(=話の受け手)」が“勝手”に判断したに過ぎません。だって、この友人の発言「昨日さぁ、ベッドの隙間から小人が出てきてさぁ」の可能性を否定するには、確証がなさすぎます。言い換えると、

2の可能性を否定することは、我々にはできない

という事となります。当たり前といえば当たり前です。だって小人を見たのは、我々ではなく、友人(=話し手)なのですから、友人(=話し手)以外誰も否定も肯定できないわけです。

どうでしょうか。たぶん腑に落ちないと思いますが、これがこの友人の発言から帰結される結論なのです。

でもやっぱり納得いかないというあなたの為に、また違った視点から考察してみましょう。

言葉は恣意的

先ほどのシーンではある一つの言葉がキーワードだったと思います。

小人

この言葉からあなたはどういった事象を規定しましたでしょうか。

「小さい人」と書いて「小人」ですから、大体の人は同じような「小人」を規定しているかもしれません。今回の『借りぐらしのアリエッティ』でいえば、アリエッティです。

ではここで、またまたお得意のちょっと立ち止まって考えてみましょうのコーナーです。

はたして、「小人」と聞いて100人が100人、アリエッティ的な小人を規定したのでしょうか。

そもそも言葉って考えれば考えるほど奥が深いものなんですが、言語哲学者のフェルディナン・ド・ソシュールという人が次のような概念を説いています。


■シニフィアンとシニフィエ

とりあえず、インターネットの便利ツール ウィキペディアでシニフィアンとシニフィエを調べてみるとこんな感じです。

ソシュールは言語を考察するに当たって、通時言語学/共時言語学、ラング/パロール、シニフィアン/シニフィエなどの二分法的な概念を用いた。

(wikipedia「フェルディナン・ド・ソシュール」項目から一部抜粋)

シニフィアンはフランス語の動詞 signifier(意味する)の現在分詞で「意味しているもの」「表しているもの」を指し、シニフィエは同じ動詞の過去分詞で「意味されているもの」「表されているもの」を指す。

(wikipedia「シニフィアンとシニフィエ」項目から一部抜粋)

「イ・ヌ」という音の連鎖(シニフィアン)と「イヌ」という音の連鎖の表す概念(シニフィエ)の結びつき方はデタラメつまり恣意的なものであるとした。

(wikipedia「フェルディナン・ド・ソシュール」項目から一部抜粋)

要するに、

  • ソシュールは言葉は2つの要素から成り立つ、と考えた
  • 言葉自体(=シニフィアン)
     ex)「イヌ」という音
  • 言葉が意味するもの(=シニフィエ)
     ex)「イヌ」が指示するもの
  • シニフィアンとシニフィエの関係性には必然性はなく、恣意的なものである

ということです。

で、シニフィアン・シニフィエという概念まで出して、僕が何を言いたかったかというと・・・

  • 「小人」という言葉を聞いても、その意味するもの(=指示するもの)は人それぞれ

ということです。勿論、ある程度は似たような小人を規定したかもしれません。でも人によっては、男性的な小人を規定した人もいれば、女性的な小人を規定した人もいる。日本人的な容姿の小人を規定した人もいれば、白人的な容姿の小人を規定した人もいる。人間的な容姿の小人を規定した人もいれば、動物的な容姿の小人を規定した人もいるわけです。

このように「小人」という言葉一つとったって、その言葉が規定するものが一意に決まることはないのです。

言葉と事象

次は、言葉と事象について考察してみましょう。

言葉というものは、何か事象があって、その事象を伝える(=理解する)ために言葉が規定される、と我々は思っています。つまり、

「イヌ的」な存在が初めにあって、「犬」という言葉で規定

    事象 ――――――――――→ 言葉

という認識です。まっ至極当たり前の感覚というか、認識というか、あなたも大きな反論はないのではないでしょうか。

ここで、発想の転換というべき考え方が、ソシュール以後の言語学世界で起こります。それは、まず言葉があって、その後、事象が初めて我々に理解可能なものとして、目の前に現れるという概念です。つまり、

「犬」という言葉が初めにあって、「イヌ的」な存在を理解する(理解できる)

という考え方です。

    言葉 ――――――――――→ 事象

今まで取り上げてきた友人の発言で言えば、「小人」という言葉があって、初めて「小人なるもの」が我々の認識の中に規定された、ということです。

小人の可能性

ということはですよ、冒頭の友人のこの発言

「昨日さぁ、ベッドの隙間から小人が出てきてさぁ」

を改めて考えても、否定することはできないと思いませんか?この友人は、友人の中で規定した「小人」なるものを本当に見たかもしれないのです。ただ、先ほどお伝えしたとおり、言葉一つとったって、規定するものはそれぞれ違います。友人がいう「小人」と我々が規定する「小人」は全くの別物という可能性が大いにあるのです。

ちょっと飛躍しすぎかもしれませんが、友人がいう「小人」は、もしかしたら、我々で言う「ゴキブリ」かもしれません。もしそうなら、友人の「小人が出てさぁ」発言も、腑に落ちるわけです。

ちょっとゴキブリだと例えがリアル(一意に決まりそうな例え)すぎましたが、もしあなたに対して、自分の子供でも、親戚の子供でも、友人の子供でも、先ほどの友人と同じように小人を見た的な発言をされたらどうしますか?

頭ごなしに「そんなもんいるわけないよ」というのか、話だけ聞いて「そうだねぇ~小人見れてよかったねぇ」とあやして終わるか。

もし、あなたがこのような対応をしてしまうのであれば、今日の僕の話がうまく伝わっていないということで、僕は自身の文才の無さを嘆くしかないわけです。

つまり、「小人」という言葉を聞いて、相手がいう「小人」が本来何を意味し、何を指示しているのかまで汲み取る努力をすることが重要なのです。だって、誰も小人がいないなんて否定できないのですから。

もしそれでも尚否定する人がいるのであれば、それは単なる傲慢、且つ越権以外の何者でもありません。その行為により、相手の思考の枠組みを勝手に決めてしまうかもしれないのですから。

また逆を言えば、あなた自身の可能性も摘み取ってしまうという事にもなるのです。

言葉の重要性

我々は言葉によって、コミュニケーションを行います。言葉はあなたの意思を相手に伝えるツールであると考えているからです。ただ、今まで僕があなたにお伝えした観点で考えると、

  • あなたが発した言葉の意味すること(=指示すること)を、相手も理解できる(だろう)

は傲慢な考え方であるといえると思います。言い換えれば、あなた(=話し手)が発する言葉が指示することは、相手は100%理解できるわけがない、ということです。
(ちょっと前の読書考察「オバマの言語感覚」でも似たような考察をしていますので、もし良かったら参考にしてみて下さい)

こういった意識で言葉を考えると、普段何気なく使用している「言葉」というものに対しても、かなり意識が変わると思います。あなたが扱う「言葉」に対しては慎重に言葉を選び、他者が発する「言葉」に対しては、その指示するものへの可能性を探す、と言い換えてもいいかもしれません。

  • 言葉は世界を切り取り(=分節)すること

なんて、よく言われますが、今まで一緒に考えてきたことを踏まえると、ある程度納得できるのではないでしょうか。つまり、言葉が世界を創っている、とも言い換えられますよね。そう考えると、言葉を多く知っている人は、より多くの世界を創れるという事にもなります。より多くの世界を創れるという事は、他者とのコミュニケーションレベルを上げていけるという事にもつながるわけです。

 言葉 10 → コミュニケーションレベル 50
 言葉 20 → コミュニケーションレベル 100

といった具合に。もし、他者とのコミュニケーションで少なからず悩みがある場合、言葉というものを大切にしてみる視点を大事にしてみて下さい。


たかが「言葉」ではなく、されど「言葉」なのだから。


ここまで読んでいただきありがとうございました。

山本 和広

日常考察

  • 「言葉」が意味するもの(=指示すること)は、人それぞれで一意には決まらない
  • あなたの主観で相手の「言葉」を否定することは、相手の可能性を閉じてしまうだけではなく、あなた自身の可能性も閉ざしてしまう

追伸
『借りぐらしのアリエッティ』の感想をちょっと書きたいなぁ、と思いまして、追伸となります。あとちょっとですので読んでいただければ嬉しいです。

今日の日常考察では、可能性を閉じてはいけない、ということを一貫して伝えさせていただきました。ただ、可能性を閉じない努力というのは、非常にパワーがいることだと思います。

というのも、我々は日々色々と学習しているわけです。様々な情報に触れ、多くの人と出会い、多種多様な経験をする。この学習は日々成長していく中では絶対に必要なことです。何も学習しなかったら成長はないですから。ただ、成長をすると同時に、あることが我々の中から薄れていくと今の僕は考えています。

それは童心。

時間という概念は、肉体的にも、精神的にも我々から童心というものを薄めていく力があると思います。ただ1点、誤解して欲しくないのは、童心が無くなるということではなく、“見えにくくなる(=表現しづらくなる)”だけだと僕は考えています。

そういった側面で考えても、スタジオジブリの作品がなぜここまで圧倒的に支持されるのかがわかる気がします。だって、子供の視点が常に描かれていますから。



子供の頃、誰しも自分がいる世界以外を想像したことが1回はあると思います。そんな世界が描かれているのが『借りぐらしのアリエッティ』です。アリエッティ視点で描かれている世界は“ハッ”っと気づかせてくれる要素が満載です。今回『借りぐらしのアリエッティ』を観て、僕は消えかけていた童心を、少し取り戻せたような気がします。

子供には理解が難しいだろうな、と思われるテーマ(要素)も入ってはいますが、それはそれ。実際には「こんな世界もある」と思わせてくれる作品なのかなぁ、と個人的には思います。

それにしても、スタジオジブリのスタッフは、なぜ“子供の視点”の映画を次々に作れるのでしょうか?時間は誰しもに平等ですから、少なからず童心(=子供心)も薄まっていくだろうと僕のちっぽけな価値観ではかってはいけないんですけど、やっぱりその視点は気になります。

以前、スタジオジブリは“遊び”というものを大切に扱っている、といった記事を見かけたことがあります。社員でキャンプやらなんやらを行い、常に“遊ぶ”という視点を忘れないように心がける(“心がける”って言葉だと義務的な匂いがしますが、もちろんそうではありまえん)。それをふと思い出すと、答えは簡単でした。そう答えは、

遊ぶ

ですね。遊ぶことは、子供の特権です。子供の仕事といってもいいかもしれません。大人になれば時間的制限も色々とあるかもしれません。でも、それを理由に遊びを忘れては、子供の視点を取り戻す、なんていうのは土台無理な話だと思います。

『借りぐらしのアリエッティ』は、知らないうちに自分の思考の枠組みが狭まっていることの認識と、「遊ぶ」という事の大切さを改めて気づかせてくれた映画でした。

追伸2
宮崎駿のインタビューで、

  • 「映画公開前は処刑台にいる気分」

的な発言の記事を読んだことがあります。また、

  • 「結局は、面白いか、面白くないか、だ」

というような事も言ってました。

作品を生み出す(創る)時は、創作活動だけに没頭し、死ぬほど苦労して、ようやく生み出して、それでも尚、「処刑台」なわけです。やっぱりあれだけの作品ですから、もちろん才能が無くては創れないと思います。ただ、“才能”だけで片付けてはいけない、「強靭な努力」があってこそのジブリ作品なんだ、と改めて実感しました。

だからこそ、その結果を処刑台と表現した宮崎駿の「言葉」の深みもまた納得ですし、その言葉の深み自体考察対象になりそうですね。



追伸3
僕もこの読書考察というサイトを通じて、言葉を発信しているわけですから、一段と身を引き締めなくてはと思う今日この頃でした。

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