パパラギ ~パパラギから得た視点~

こんにちは。
山本です。

三連休。夏本番という感じの陽気が続いておりますがいかがお過ごしでしょうか。異常気象ともいうべき天候が続いていた最近。梅雨明けも発表され、絶好の行楽日和の三連休。読書もいいですが、こういう日はぱぁーっと外に遊びに行かないと損な気分になりますよね。

本を読み、そこから得ることの経験も大事ですが、実体験に基づく経験に優るものはありません。きっと面白い気づきが満載だと思います。
(といいつつ僕はこの原稿を書いていますが・・・苦笑)

それでは夏の暑さに負けないよう、本日の読書考察いってみましょう。


パパラギ

パパラギ
~はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集~
エーリッヒ・ショイルマン 著
岡崎照男 訳
ソフトバンク文庫


先ず簡単に本の内容から。

  • パパラギ=白人のこと、見知らぬ人のこと

南海地方の人は白人の事をそのように呼び、その言葉の中には彼ら(白人、文明人)への軽蔑・反発が強く込められているといいます。

サモアに住む酋長ツイアビが、そんなパパラギの文明に触れ、その時の驚きを語った演説集。

一言でいえば文明批判

それがこのパパラギという本であります(演説集とはいっても、この本はあくまでフィクションです)。

我々が当たり前のように過ごしているこの社会も、別の角度(別の社会)から見ると全く異なった社会なのだと、(当たり前といえば当たり前なのですが)改めて気づかせてくれる本です。

今から90年も前に出版された本ではありますが、今でも色あせることなく(それの意味することは我々の文明が根本的には何も進化していないということかもしれませんが・・・)、新たな驚きを啓示してくれます。

世界中で翻訳され、90年たった今でも読まれ続ける本という視点で読んでみてもパパラギは面白いかと思います。

それでは、パパラギに関して僕なりの読書考察は以下となります。

1. 理性への無意識的刷り込み

パパラギでは、酋長ツイアビが我々の文明を様々な物言いで批判します。例えば、我々が住む家に関してもツイアビにしてみたら以下のように映るわけです。

 パパラギは、巻貝のように堅い殻の中に住み、熔岩の割れ目に住むムカデのように、石と石のあいだで暮らしている。頭の上も、足の下も、からだの周りも、すべて石である。パパラギの小屋は石でできていて、まっすぐな箱のような形をしている。たくさんの引き出しがつき、あちこち穴だらけの箱である。
(中略)
 だから不思議でならないのは、どうして人がこの箱の中で死んでしまわないか、どうして強いあこがれのあまり鳥になり、羽根が生え、舞い上がり、風と光を求めて飛び立ってしまわないか、ということである。だがパパラギは、石の箱が気に入っており、その害についてはもはや気がつかなくなっている。
(中略)
ここは、まだいくらか美しく、豊かである。私たちの土地と同じように、木々や森や川があり、小さな本当の村もある。(中略)
 これらの村には、町の人間とは違った心の人びとが住んでいる。この人たちは田舎者と呼ばれる。町の人間より食べ物もたくさん持っているはずなのに、ざらざらの手をし、汚れた腰布をつけている。彼らの暮らしは、割れ目の人間よりもずっと健康で美しい。ところが、彼らにはそのことが自分で信じられず、彼らがなまけ者と呼んでいる、大地に触れることもなく、果実を植えて収穫することもない町の人間たちのことをうらやましがっている。
(中略)
だが双方のこの争いは、戦争にまで広がるほどのものではない。総じてパパラギは、割れ目に住んでいようと田舎で暮らそうと、あるがままに、すべてのことに満足なのである。
(中略)
 だが私たち、日と日の光の自由な子である私たちは、大いなる心にいつまでも忠実に、石をもってその心を煩わすことはすまい。もはや神の手を放してしまい、心迷える病気の人たちだけが、日もなく光もなく風もない石の割れ目で幸せになれるのだ。そんな不確かな幸せでも、パパラギが望むならくれてやろう。だが、日当たりのいい私たちの海岸に石の箱を建て、石で、割れ目で、塵と埃で、うるさい音で、煙で、砂で、人間の喜びを滅ぼそうとするパパラギのあらゆる企ては打ち砕かねばならぬ。

(パパラギ「石の箱、石の割れ目、石の鳥、そしてその中に何があるかについて」から一部引用)



引用が少し長くなりましたが、どうでしょうか。我々が普段何気なく感じていることも他文化からみたら、それは“異様”な光景として捉えられるわけです。

我々は無意識的に何かと比較しながら生活していると思います。パパラギを読んだ後、その“比較”という行為に自分自身の価値観や自尊心が何気なく反映されてしまっている事実に驚かされました。例えば、先ほど引用した家に関してです。割れ目に住む、田舎に住む、です。

世の中見渡してみて、改めて気づく事実。それは、

  • 人より、良いものを。
  • 人より、いい家を。

という価値判断です。僕はこの価値判断が悪いといっているわけではありません。良い悪いではなく、

  • こういった価値判断が無意識的にあなたを支配していませんか?

という問いとなります。

あくまで私見とはなりますが、この現代社会で育った我々には、こういった価値判断が無意識的に我々の理性に刷り込まれていると僕は考えます。

それがもたらす結果としては、理性によって、思考能力(論理能力)がある程度制限されてしまう、という弊害が発生します。それは、何か論理的な飛躍が起こる際に理性が邪魔する。つまり、理性が邪魔しなかったら10という飛躍が起きたかもしれないのに、5という飛躍にしかならない、ということです。

我々人間は、大人になればなるほど、もっと正確に言うと、多くの物事を知れば知るほど、飛躍が起き難くなります。それは、物事を知る(=語彙が増える)ほど、否定という概念が入る余地が増えるからです。大人になると「もう年だから・・・」なんて言い訳をする人を見かけると思いますが、これの根源は“否定という概念が増えている”と言えると思います。

日々生きれば生きるほど、飛躍が置きにくい環境に陥ってしまうのが我々人間なのに、それに加えて理性というものが圧力をかけてしまったら、それこそ飛躍なんて起き難くなるのは当たり前だと思いませんか。

つまりそれは、

  • 理性への無意識的刷り込み = その人の可能性の限界幅を抑制

ということです。

「常識を疑え」

今じゃありきたりのこのスローガン。最近はこの言葉に真の重きを与えずに使用しすぎている風潮がありますが、この「常識を疑え」は、我々の飛躍には必ず必要な要素であることは確かです。

日々生きていく中で当たり前と思うことを“不思議”と思う、旺盛な好奇心と、何事も問い続けようとする持続力。これが我々が飛躍するために必要な要素であることは疑う余地はないと思います。

僕はより善く生きるために、飛躍は必要だと考えています。

2.一側面から多側面視点への推移

パパラギでは「お金」についても以下のように言及しています。

 宣教師は私たちに嘘をつき、私たちをあざむいた。パパラギが宣教師を買収し、大いなる心の言葉を借りて私たちをだましたのだ。丸い金属と重たい紙、彼らが「お金」と呼んでいる、これが白人たちの本当の神さまだ。
(中略)
 彼は患い、とり憑かれている。だから心は丸い金属と重たい紙に執着し、決して満足せず、できる限りたくさん強奪しようとして飽くことがない。「私はこの世に来たときと同じように、不平も不正もなく、またこの世から出てゆきたい。大いなる心は私たちを、丸い金属、重たい紙なしに、またこの世に送ってくださったのだから」などとは、彼は考えることができない。
(中略)
 何よりもまず、私たちはお金から身を守ろう。パパラギは今や、ほしがらせようとして、私たちにあの丸い金属と重たい紙を差し出している。それが私たちを豊かにし、幸せにすると言う。すでに私たちの中で、目がくらんで、重たい病気になったものがたくさんいる。けれども私はおまえたちに語ろう。お金で人は楽しくなったり、幸せになったりすることはない、それどころか、人の心を、人間のすべてを、悪しきいざこざの中へ引き込んでしまうということを。そしてお金は、ひとりも本当に救うことはできない。ひとりも、楽しく、強く、幸せにすることはできないのだということを。
 おまえたちが、おまえたちのつつましい兄弟の言葉を信じ、言うことをわかってくれるなら、おまえたちはあの丸い金属と重たい紙を、もっとも凶悪な敵として憎むことになるだろう。

(パパラギ「丸い金属と重たい紙について」から一部引用)



以前、「お金のシークレット」の読書考察で「お金の物神性」ということをお伝えしました。その際も言ったと思いますが、もちろん、この日本で生きて行くにはお金は必要です。そりゃ少ないよりも多いほうがいいとも思います。

ただ、ツイアビは言っています。「お金で人は幸せにならない」と。

しかし、「お金で人は幸せにならない」ということ自体、理性ではなんとなく理解できるけど、実生活に置き換えると・・・なかなか咀嚼できない、という想いがあなたの中に少なからずあるのではないでしょうか。

正直この問題は個人に依存するケースが多いので、普遍的な回答を出すのは難しいです。

ただ、僕がここで伝えたいことは、

  • 思考にゆとりの幅を持たせる

ということです。これはどういう事かというと、「お金」を一側面からだけみると、それこそお金がもつ物神性にばかりに集中してしまいます。それによって、人生全てを「お金」という本来尺度にすべきではないようなモノを、尺度としてしまい、その「お金(=尺度)」自体に振り回されてしまう。

「お金」に振り回された人がどうなってしまうかというと、

  • 思考の根源が全て「お金」に紐づいてしまう

こういう思考の持ち主は大概、人生にゆとりがありません。常に「お金」が思考に紐づいていて、「お金」以外の思考を持てないからです。

とはいっても、先ほども述べましたが、この日本で生きているわけです。多少なりとも「お金」の思考はあるわけで、これを捨てるということは正直難しいと思います。勿論、僕だってできません。

ただ、僕らはパパラギから他文化からみたお金の視点を学ぶことができたわけです。つまりは、お金を違う側面からみる視点を得られたわけです。

この視点を持てたという事は人生によって大きな意味を持つと僕は考えます。

それは、対象はあくまで「お金」ですが、その「お金」を違う角度から見る視点を養えたことは、思考に「お金」と紐づかないゆとり幅が生まれた、とも言い換えられます。

それは、その生まれた幅に違う事象の事柄を取り入れる新しい思考の種が生まれる可能性が出来たことと同義と僕は理解していますから、より我々の思考が広がるということです。

これは僕が読書考察で一貫してあなたにお伝えしていることですが、思考の広がりは、より善い人生につながる、ということになります。

パパラギを読みツイアビの演説を通じて、我々は異なる視点(地平)を手に入れることができたわけです。それは、我々が日々生活する中で、不満に思うことも、違う視点からみると、また違った思考が生まれ、それにより、不満が不満ではなく、自己の成長に役立つ事柄かもしれない、というきっかけに気づける視点を一つ手に入れることができたという事です。

90年も前に書かれた本が、未だに我々の生活に有益な視点を与えてくれる。これからもこういった本に出会える事を願い、本日の読書考察は以上となります。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

山本 和広


読書考察

  • 無意識的に刷り込まれた常識という理性の枷が、我々の飛躍の邪魔になる場合がある
  • 理性に刷り込まれている常識を疑え
  • 対象を多面的に見る視点を得るという事は、思考の幅が広がるという事

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