「読書について」 ショウペンハウエル著

読書について
 読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。(中略)だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。(中略)そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。
(中略)
 さらに読書にはもう一つむずかしい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。

こんにちは。
山本です。

この前、ワールドカップ日本戦を1度も見なかった事を告白したら、「非国民」と言われてしまいました・・・。別にわざと見なかった訳ではなく、他にやる事・考える事が山ほどあっただけなんですけどね。勿論、日本が勝ったというニュースを聞けば嬉しいんですよ。日本人として純粋に。ただサッカーを見る時間があるなら、他にやらなくてはいけない事をやりたかっただけなので。まぁ見たくてもテレビがないから見れないんですけどね!(笑)

さて、今日は読書考察という名のサイトに相応しい本の考察となります。冒頭の数行も本日の読書考察対象の本からの引用です。くだらないテレビを観るよりは、上記数行を読んだ方が遥かに得るものは大きいかと思います(別にワールドカップをくだらない、といっている訳ではないので悪しからず)。

という事で、早速本日の読書考察はこちらです。

読書について

読書について 他二篇
ショウペンハウエル著
斎藤忍随訳
岩波文庫

他二篇と書いてあるとおり、本書は「読書について」以外に、「思索」「著作と文体」の三篇構成となっており、ショウペンハウエルの著作「パレルガ・ウント・パラリーポメナ」に収められている三篇にあたります。主題となっているのは「読書について」なんですが、実際のページ数としては、「読書について」が一番少ないです。「読書について」だけを読むも良し、「思索」「著作と文体」も合わせて読むも良し。何にせよ、250年以上前に書かれたとは思えない程、今の時代にも当てはまるのには驚きですし、何より、かなり毒舌なんですよ、この人(もちろん、原文(ドイツ語)ではなく翻訳を読んだわけなので何処まで原文に近しいかはわかりませんが)。知識人はあまりに過激な表現は使わない、という僕の勝手な常識をひっくり返してくれたという点でも面白いです。

金額も岩波文庫で500円ですので、くだらない新書を1000円で購入するよりはよっぽど有益ではないかと思いますので、「本を読む」という行為に何かしらの意味を見出したいと考えているのであれば、読むことをお勧めします。

それでは、早速ですが本日の読書考察いってみましょう。


1.読書と目的

最近は活字離れなんていわれて、本を読まない人が多いと聞きます。文庫などの本だけではなく雑誌等も読まれていないらしく、廃刊が相次いでいます。確かに、電車に乗っている人を見渡しても、本や雑誌を読んでいる人より、携帯やゲームをやっている人の方が多く目につきますから、そういった日常の風景からも感じ取れる現実なのかもしれませんね。

まぁ別に本を読みたくない人に、無理して本を読ませる必要はないと僕は思います。人によっては、本で得る知識より、日常生活から得る知識の方が効率的に自分の物にできるとう人もいるからです。動きのある情報というのは、それだけで何かを我々に訴えかけてくるわけですから、静的な活字とは受け取る側に求められる力量も違うと思うからです。

じゃなぜわざわざ本を読む必要があるのか?なぜ我々はお金を使ってまで本を買って、時間を割いてまで読書をするのか?

色々と考えることはあるかと思います。もちろん、人によって読書に求めるものは違いますから、読書に対して「正解」なんてものはないと思います。それを踏まえた上で、今の僕が先ほどの問いに答えるとすると・・・

  • 著者の思想・経験に触れることができる

と回答すると思います。

先ほど、“日常生活から得る知識の方が効率的に自分の物にできる人がいる”という事をお伝えしました。ただ、ここで一つ考えて欲しい事は、やっぱり我々が経験できることって限りがあるということです。例えば、「いま、この時点」での地球の裏側で起こっていることに関して我々は経験できないわけですから。

もっとわかりやすく例えると、「いま、南アフリカ」で行われているワールドカップの中継はテレビで見ることができますが、その現場の空気(雰囲気)は経験できないのです。そこで、例えば現地に行った方のブログなどを見る(読む)。それによって、その現場の空気(雰囲気)を(擬似)体験しようとするわけです。

これが、読書をする目的です。

「日本負けちゃったけど、そっち(南アフリカ)ではどんな形で伝わっているのかなぁ」という目的を持って、ブログやTwitterなどを見る(読む)。

「昔の知識人は“読書”という行為をどのように考えていたのだろうか?」という目的を持って、ショウペンハウエルの「読書について」を読む。

読書の対象が違うだけで、読書の目的はすべて同じです。つまりは、

  • 著者の思想・経験に触れたい

という目的があるから、我々は読書をするのだと思います。

ただ、ここで1点注意しないといけないことがあります。冒頭に引用したショウペンハウエルのこの言葉です。

 さらに読書にはもう一つむずかしい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。

つまりは、本に記載されている事は、書いた人(著者)の経験したことに過ぎない。我々はその経験を知り(読み)、自分の目的に合わせてその経験を昇華して、自分の物にする必要がある、ということです。

結局は他人の経験はあくまで自分とは離れた経験です。単に読書をして「ふ~ん、いい本読んだなぁ~」「勉強になったなぁ」では、本を読んだ意味はないということです。

そして、ここで一つ付け加えさせていただくとすると、我々人間は忘れる生き物という現実です。本を読んでも、その本の内容を全て記憶することは不可能です。単に読むだけでは1割も内容を留めることなく忘れてしまうと思います。ただ別に忘れてしまうことに対して、決して卑下する必要はありません。だって、我々人間は忘れてしまう生き物なのだから(みつを風・笑)。また、この事についても、ショウペンハウエルは「読書について」で次のように語っています。

 読み終えたことをいっさい忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。その当人が食べたものによって肉体的に生き、読んだものによって精神的に生き、今の自分となったことは事実である。しかし肉体は肉体にあうものを同化する。そのようにだれでも、自分の興味をひくもの、言い換えれば自分の思想体系、あるいは目的にあうものだけを、精神のうちにとどめる。
(中略)
 「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような経験をするからである。

つまりは、「いまの自分」に合った本だけが、自分のものとなる、という事だと僕は理解しました。「いまの自分」がどんな知識・思想・経験を持っているかによって、「いまの本」から得られる情報は変わってくるということ。これを踏まえ、ショウペンハウエルの「読書について」を読んで僕なりの考えは・・・


「いま」我々が持っている知識・思想・経験で、読書から得られた他人(著者)の知識・思想・経験を租借して、新しい知識・思想・経験を生み出すこと


これが、我々が読書をする目的だと「いま」の僕は考えます。

2.多読とストレス

  • 「あなたは月に何冊本を読みますか?」

こんなアンケート(質問)受けたことある人いますか?先ほどちょっとネットのQ&Aサイトなどで検索してみたら、質問の意図はそれぞれ異なるとは思いますが、似たような質問をしている人を多く発見することができました。多分、この類の質問をする人の根本には、

  • 本を多く読む人は頭がいい

というイメージが漠然にあるのではないでしょうか。確かに、月に1冊も本を読まない人より、月に10冊本を読む人のほうが博学な印象を受けてしまいますよね。

また、読書メーターなるサイトをあなたはご存知でしょうか?SNSサイトだとは思いますが(僕もあまり詳しくは知りません)、一応コンセプトとして「あなたの読書量をグラフで記録・管理!」こんな風に書かれていますので、読書量をメインとしたサイトなのでしょう。

では、ここでちょっと立ち止まって「読書量」について考えてみましょう。

本当に、本を沢山読むことが正でしょうか?まっ僕がこんな問いをするという事は、それと反対の事がいいたいわけです(笑)。だって、本を沢山読む事と読書の質がイコールで結びつくなんて、何かがずれていると思いませんか?

しかし、これを正とするずれた世界もあるのは事実です。だから「多読=なんかすごい」みたいな図式が成り立ち、一部のコミュニティ内では尊敬の眼差しを受けるのでしょう。

この間違った思想(イメージ)を一蹴してくれるのが、またまた、ショウペンハウエルです。

 文学も日常生活と同じである。どこに向かっても、ただちに、どうにもしようのない人間のくずに行きあたる。彼らはいたるところに群をなして住んでいて、何にでも寄りたかり、すべてを汚す。夏のはえのような連中である。だから悪書の数には限りがなく、雑草のように文学の世界に生い茂っている。雑草は麦の養分を奪い、麦を枯らす。すなわち悪書は、読書の金と時間と注意力を奪い取るのである。この貴重なものは、本来高貴な目的のために書かれた良書に向けられてしかるべきなのに、金銭めあてに、あるいは官職ほしさに書かれるにすぎない悪書が、横から略奪するのである。したがって悪書は無用なばかりか、積極的に害毒を流す。
(中略)
 したがって読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。(中略)比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読するべきである。
(中略)
 良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

どうでしょうか。我々が漠然と持っていた読書に関してのイメージを払拭してくれ辛辣な言葉ではないでしょうか。

この言葉を知ってから僕は読書に関してストレスを感じなくなりました。というもの、僕は本を読むスピードは決して速くはありません。寧ろ遅いほうかもしれません。どうしても、その著者が記した一単語に含ませる意味までも捉えて読もうとすると時間がかかってしまうからです。そういった姿勢で本を読むと、ページも全然進まず、途中で飽きてしまい、読めない自分に苛立ちを感じてしまうこともしばしばありました。

でもこれってやっぱり読書量(数)に重きを置いているからこそ、こういったストレスを感じてしまっていたのだと思います。しかし、ショウペンハウエルがいう「良書」を読んでいるという意識を持てたことにより、どんなに時間がかかっても読書そのものに対してのストレスはなくなってきたと思います。

確かに、読んでも意味のない本、もっと言えば、記憶にも残らない本(新しい知識・思想・経験を生み出さない本)は、読むだけ無駄だったといえると思います。1.読書と目的でお伝えした「目的」がない本は「いまの自分」には必要のない本ということです。

つまりは、

  • 悪書を100冊読むより、良書を1冊読んだほうが読書として意味がある

ということです。「いま」のあなたが選んだ本はきっと「いま」のあなたにとって何か価値ある本になる可能性が大きいのです。その本を読む行為(読書)に対して、変なストレスを持たないでいただければと僕は思います。


それでは、ここまで読んでくださってありがとうございました。

山本 和広

読書考察

  • 読書とは「いま」の自分に新しい「現実」を所有させてくれるものである。
  • 本を多く読む必要はない。良書を読めばいいだけなのだから。

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